日本の安全保障について思うこと

日本の安全保障について思うことについて記述していきます。個人的見解に基づいて記述しています。


特集
北朝鮮関係

在日韓人た歴史資料館に行ってきました

日韓関係を考える中で、歴史を知らなければなりません。

麻布十番にある在日韓人た歴史資料館に行ってきました。

入場料は200円です。

 

大韓民国大使館領事部の建物にある施設です。大韓民国政府による公式な資料館と思っていいと思います。

 

「歴史を伝えることが目的であり、その評価は来館者の判断に任せる」とのことで、私なりに感想を述べておきたいと思います。

 

まず、在日韓国人の方たち、苦労されてきたんだな、というのが率直な感想です。

 

ただ、気になったのは、日本に住むことになった理由の部分。

 

戦時徴用等で、なかば強制的に日本に連れてこられた方はいると思います。

 

ただ、それ以上に、自らの意思で日本に住んでいる人たちもいるはず。

その事実に対する展示が見当たらりませんでした。(細かく見ればあったかもしれません)

 

たとえば、日韓併合の際に、期待に胸を膨らませて、日本の大学に進んだ人、日本で事業を始めた人、多かったのではないでしょうか?

 

それと1950年前後、韓国では国民保導連盟事件、済州島四三事件等、自国民を虐殺するような事件が何度かありました。

 

その大虐殺から逃れるために、日本に避難し、居着いた人が多数います。

 

この2つの事件は韓国でも、いまだにタブーなようで、政府としても展示しにくい部分かもしれませんが、歴史を伝えるなら、在日韓国人のルーツの一部として、避けて通れない部分ではないかと思います。

 

 

 

 

 

japanese-security.hateblo.jp

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保導連盟事件

韓国の悲しい歴史を考えるにあたって、保導連盟事件を忘れてはならない。

国民保導連盟とは

第二次世界大戦終了直後の1945年9月、左右合作での朝鮮独立がなされたのですが、すぐに、いわゆる38度線を境に、南北に分断されました。

しかし、物理的に分断されただけで、韓国側にも金日成を崇拝する人、共産主義者も多数存在していたのですが、韓国政府は、彼らを支援しながら、転向をさせるための組織をつくりました。それが国民保導連盟です。

 

政府からの支援が受けられるということ、また、会員からの勧誘により、転向者以外での参加者も多くいた、と言われています。

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 保導連盟事件とは

ところが、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発の勃発により、

李承晩大統領が、保導連盟加盟者の虐殺を命じました。

女性・子どもを含めて、20−120万人(全国血虐殺者遺族会が、遺族たちの申告をもとに作成した報告書では140万人

 

実際の殺戮には、軍や警察、政府関係者はもちろんですが、

自警団や右翼等の民間人も多く関わっている言われています。

 

日本との関わり

保導連盟事件を逃れるため、多くの加盟者が日本に密航したと言われています。

朝鮮戦争休戦後も、多くは帰国を拒み、日本に住み続けています。

 

 

同胞を殺戮するという、それはそれは残虐な事件です。

詳しくはwikipedeiaを見てください。

保導連盟事件 - Wikipedia

済州島四・三事件

韓国の悲しい歴史の中に、済州島四・三事件も忘れることができない。

済州島とは

朝鮮半島の南西に位置する火山島です。

比較的温暖な気候でもあり、「韓国のハワイ」をキャッチフレーズに、リゾートとしての開発が進んでいます。

 

歴史的に見ると、韓国の一部ではなく、中世までは独立国の扱いでした。

また戦後の一時期も韓国ではなく独立した国として扱われていました。

民族的にも韓民族よりも、日本人という説もあり、また言語も1950年頃は独自のものが使われていました。

 

済州島四・三事件について

もともとは、朝鮮人民国の一部であった南朝鮮が北朝鮮抜きに総選挙を行ったのを契機に、済州島住民との衝突が発端です。

これを機に南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団等が済州島に上陸し、住民の虐殺を始めました。

 

1947年頃から1957年頃まで続いたものと思われます。

済州島住民の約2割が死亡、その他は日本へ逃げ、島民数は28万人から3万人に激減しました。

 

この事件により、済州島は韓国に編入されました。

なお、韓国政府は現在でも、この事件をタブー視して、事件全容の解明を拒んでいます。

 

日本との関わり

済州島の島民は、民族的に日本人と近く、言語的にも日本語に近いため、多くの島民が日本に逃避しました。

 

彼らは、日本の韓国人コミュニティとは距離を置き、日本でも独自のコミュニテイを形成し、日本への定住を希望し、多くが日本で生業についたと言われています。